以下、いつものように本ページに内容は全て理屈コネ太郎の管見内の独断と偏見による私見に過ぎない旨をご銘記のうえお読みいただければ幸甚です。
強盗は犯罪であり、物乞いは依頼である。この点において、両者の行為は性質が異なる。しかし、興味深いのは、強盗は自らを強盗と認めて行動し、物乞いは物乞いとして行動する点である。つまり、彼らは自らの立場を正直に示しており、金銭がどのように移動するかの構造は極めて分かりやすい。この透明性は、むしろ現代社会の複雑な金銭の流れと比較すると、逆説的に純粋ともいえる。
社会には、強者と弱者が存在するのは厳然たる事実である。強者はその能力を活かし、社会で活躍する。一方で、弱者は自分なりの生き方を模索し、他者からの援助がなければ生活できない人も多い。しかし、ここで注意したいのは、弱者という概念の複雑さである。
弱者には、弱者ではないが救済の仕組みを利用することを目的とする人、自助努力を放棄した人、不幸な運命を背負ってしまった人など、さまざまな背景を持つ人が含まれる。
特に問題となるのは、弱者の解釈を拡大しすぎた場合である。能力的には弱者ではないが救済のしくみを利用する人がを弱者に含めたりするような過剰に広がった弱者の枠組みは、社会の中核を担う現役社会人に過大な負担を強いる。結果として、社会のメカニズムが歪み、活力を失う原因となる。
弱者救済の社会的メカニズムは、その複雑さが一層の課題を引き起こしている。この領域には、理屈コネ太郎的解釈では職業的正義の味方と呼ばれる人々が登場することが多い。彼らは、あたかも声をあげられない弱者の代理人として振る舞い、善意の結果の不可抗力なのか、しばしば自身への利益誘導としか思えない行動によって弱者救済の仕組みの各段階でエージェンシーコストを増大させる原因となる。
これにより、弱者救済の本来の理念が歪められ、摩訶不思議な金の流れが発生する。弱者の支援が必要であるという本質的な議論が、別の問題にすり替えられてしまうのだ。
そのため、弱者の枠組みをきちんと議論する必要がある。弱者とは誰であり、なぜその人達を社会的に助ける意味があるのか。その答えを明確にした上で、合理的で透明性の高い仕組みを構築することが求められる。特に、職業的正義の味方や自称弱者の代理人が介入する余地を可能な限り排除し、純粋に弱者救済を目的とした仕組みを作り上げるべきである。
公金を投入する弱者救済は、その理念を守りつつも、余計なステークホルダーを生まない仕組みを必要としている。そのためには、弱者の定義を明確にし、その枠組みに基づいて分かりやすく、隙のない仕組みを設計することが不可欠である。透明性と効率性を高めることで、真に弱者を支援する社会を実現できるだろう。このような仕組みが構築されることを心から望む。
今回は以上。
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